Masterclass A History of Violence

 

 

 

 

 

 

Interview: Masterclass A history of violence  Source: EcranLarge.com

訳:cinephileさん

11月2日に 現代のアメリカ社会の無秩序さ、正当化された暴力についての奇妙な物語、『A history of Violence』、デヴィッド・クローネンバーグの新しい映画が公開になる。デヴィッド・クローネンバーグは彼の映画のファーストキャストのヴィゴ・モーテンセンと、昔からのオペレーター・チーフ ピーター・サシツキー を伴って、彼の最新作を語りに マスタークラスフナックの場にやって来た。

『A history of Violence』のシナリオはどのようにしてあなたの元へたどり着いたのですか?シナリオをどのように読みましたか?シナリオをどのようにデヴィッド・クローネンバーグの映画らしいものにしましたか?
DC:僕のロサゼルスのエージェントが持ってきてくれたシナリオを読んだときに、正直言ってこの話が、ある漫画を基にしたものだとは知らなかったんだ。あなた方の中でかなり多くの人がこの漫画を好きなのは知っているけれど、このシナリオがオリジナルのシナリオではなかったことはぜんぜん知らなかった。このシナリオの中で僕が興味を持ったのは、アメリカを象徴するさまざまな要素が挙げられていたことなんだ。もちろんウェスタンの要素もあるし、ギャング映画の要素もある。でも一番このシナリオの中で僕が惹かれたのはアメリカの神話の浸透なんだ。と同時に、僕は決してデヴィッド・クローネンバーグの映画をつくろうなんて考えないよ。新しい映画を作り始めた時点で、今まで僕が作った映画のことは忘れようとするんだ。つまり、僕は映画が語らんとしていることに耳を傾けたいと思うんだ。僕は 決して自分のこれといった刻印みたいなものを残そうなんて思わない。でも僕が作るから、必然的にデヴィッド・クローネンバーグの映画になるわけなんだよ。

●ウェスタン風であり、スリラーでもありギャング風でもあるアメリカの神話の要素は、映画好きとして個人的にあなたに何かをもたらす要素なのですか?あなたの映画通素養はむしろ実験的な映画を作ることですよね。クラシックなタイプのアメリカ映画はあなたの想像を掻き立てるものなのですか?
DC:映画監督として、僕はハリウッドとヨーロッパの間に確実にいるわけで、この2つの影響が僕の中にはあるんだ。子供だったときには 最初にアメリカ映画をたくさん見たわけだが、ヨーロッパの実験映画館(アートシアター)で、ベルイマンやフェリーニやその他の監督の作品を見た。トロントは 文字通り、物理的にも地理的にもアメリカとヨーロッパの間にあるんだ。僕の映画もそう。つまり僕の映画通神経中枢はハリウッドとヨーロッパの間にあるんだよ。

●映画の中で、現代アメリカスリラーのいくつかの作法の流れを変えたともいえます。ハリウッドのスリラー映画には決して見られないものがあるわけですが、今日のアメリカのアクション映画およびスリラー映画に対しての批判的・皮肉的なコメントとして この映画を作ったのですか?
DC:僕の映画は皮肉っぽいとは思わないよ。それにこの映画をモデルニストとして捉えることはできるけれど、その先を行くようなものではない。
でも、できるだけ現実に近い方法でこの映画を撮影する、感情的にできるだけ正直に撮影するということを 俳優陣と決めたんだ。だから、いかなる皮肉なしに、僕の映画は よりいっそう今までの皮肉を破壊するようなものなんだ

●あなたはヴィゴ・モーテンセンを主役に抜擢しましたね?ヴィゴ、あなたのデヴィッド・クロネンバーグ監督との出会いは どんなものでしたか?役柄へのアプローチはいかがでしたか?
VM:シナリオを読んだときに、すぐに僕はよいシナリオだと思ったんだ。でもそれはデヴィッドのおかげだよ。彼が映画監督だったからね。だから僕は役を引き受けた。デヴィッドのファンでもあるしね。彼の映画をみると、彼自身が知的でちょっと変わっているということが判ると思う。
DC:ハンサムなんだよ!(笑い)
VM:本当に巨匠なんだ。彼と一緒に仕事をするのが好きだったよ。シナリオについての僕の疑問・質問は、彼も同じように抱えていたからね。はじめからその点同意していたんだ。

●デヴィッド・クローネンバーグの映画の中で どの映画に感銘を受けましたか?
VM:彼の映画は全部見ていないんだ。特にこれだというものはない。映画撮影の間に、たとえば僕は『デッド・ゾーン』についてかなり考えたよ。たとえば映画のトーン、家族や役の人格に関する問題とかね。そんなことについても 撮影の間に話をしたよ。

●デヴィッド・クローネンバーグとの日々の仕事はどのような感じで過ぎていきましたか?彼は俳優にかなり指導をしますか?配置やポーズなどにはうるさいほうですか?あなたの役柄の中であなたが演じたいと思う自由な空間を残しておいてくれますか?
VM:自由でかつ準備ができている・・・とても気分がよかったよ。彼は俳優陣やスタッフともコミュニケーションを図るのが得意だ。初日に撮影が始まると、多かれ少なかれみんな彼がどうしたいのかがわかった。でも毎日、自分たちで考えたものを見せる自由があった。スタッフとの協力的な雰囲気があったからね。自分たちだけのために 映画のためにいい仕事をしたい、というだけでなく彼のために、彼が見たいと思うものを作りたいと思ったんだ。こんな風に思わせてくれる、信頼してくれる監督は、常にいるわけではないよ。

●ピーター・サシツキーさん、あなたは映画にインスピレーションをもたらした漫画について研究をしましたか?それともデヴィッド・クローネンバーグ監督とともに映画のヴィジュアルスタイルを決定付けるために、映画と漫画を切り離しましたか?
PS:デヴィッドと僕は映画をどのようにするかという方法を見つけることを楽しんだと思う。映画の撮影に入る前は映画についてあまり話をしなかったんだ。撮影を始める前に撮影録画を決してしないんだよ。だから僕としてはお決まりの形にはいかないようにしている。盲目のままで進むんだ。

●クローネンバーグ監督との15年来の共同制作活動を経て、毎回まったく異なる映像スタイルを見つけた気持ちになりますか?デヴィッドがあなたに求めるものが何であるかはお分かりですか? 毎回今までとはまったく違った実験ですか?
PS:デヴィッドが僕に求めていることはわからない。よく覚えているのはデヴィッドがこの映画の撮影に入る前に 僕の意見を求めて電話してきたんだよ。ほかの監督と同様に、撮影に没頭するまえにためらうときがあるんだ。僕もそれは同様だけれど。でも常に僕は彼と一緒に撮影することを承諾した。常に楽しみでもあるからね。彼を説得するためにフリッツランドの映画を呼び起こさせる要素があると言ったんだよ。:自分の運命と過去から逃れられない男のテーマなんだ。二人でそのテーマについて話し合ったよ。
VM:この二人はとてもいい俳優だよ!なぜならとてもプロフェッショナルで計画的な人たちと仕事をしている印象があったからね(笑)。

●アメリカでのこの映画の公開のときに、この映画のイデオロギー的な内容について 正当防衛を賛美している、と批判するアメリカ人もいました。
DC:アメリカでの批評はとても正確なものだったよ。アメリカ人の多くの批評は、反対に、僕の映画のものの見方にかなりかなったものだった。僕の映画はきっとご極右派が好むだろうなあ。僕もそう望むけれどね。僕の映画が変に解釈されるよりも、かなり的確に伝わったという点で、アメリカでの批評を聞くのはとても嬉しい事だよ。ある批評家は、この映画が、みんなアメリカでは右よりではないということを証明するのに役に立つといってくれたからね。彼らは、この映画がアメリカのいまの状況がどんなに不幸なものであるか、という点を見せるのに役に立つと思っているんだ。この映画が正当防衛を賛美するのではなく、現代アメリカ社会の状況を批判しているというんだよ。

●この映画はアメリカでは成功でしたね。ハリウッドの映画産業とあなたの関係についてお話願えますか?
DC:僕とハリウッドとの関係は 時として存在しないものだったよ。あなたがいつの時代のことを聞いているかにも寄るけれど。この映画以降は、ハリウッドでの僕の価値はぼくが『クラッシュ』や『スパイダー』を撮影したころに比べたら大幅にあがったんだろうね。あの時は 僕と話をしたがる人はいなかったから。でもハリウッドでの僕の経験は 必ずしも悪いものではないよ。『M Butterfly』に関してはむしろ失望だったけれど、ぼくはそのせいでハリウッドを非難することはできない。この映画が公開になった時代は、好意的ではなかったからね。でも『A history of Violence』に関する僕の経験は本当に驚くべきことだったんだよ。なぜなら 一度に僕は創造性と、資金調達について心配が要らない状態を得られたからね。僕にとっては本当にすばらしいことだったよ。

●『A history of Violence』のタイトルは 映画にインスピレーションを与えた漫画のそれと同じものですね。あなたは「history」という言葉の意味に違いを考えますか?
DC:フランス語では違う意味があるよね。物語と歴史という意味がある。アメリカでは、あるひとつの表現があるんだ。< a history of Violence>を持ち合わせている男を捕まえたとすると それは犯罪過去がある、暴力的な過去を持つ人だという意味なんだよ。つまり完全な容疑者だ。僕はこの意味について語りたいと思った。もっと学術的な意味においては、歴史、アメリカの植民地の歴史を考えると、それは戦争や原住民の破壊のうえに成り立った植民地の国家が大多数だということだ。それにこれはわれわれの種族としての、人間の条件の歴史なんだよ。ある日、この映画をドキュメント映画としてこの映画を作りたかったのかと質問されたが、僕はもし人間の長い歴史についての映画を作るとしたら とてもとても長いものなっていただろうと答えたよ。

●とても冷たい意地の悪いユーモアが映画に一本通っていると見受けられます。これはあなたが否定したいことですか?
DC:はい、これは拒否したいです。でも一方では、この映画はある意味現実外に位置している。僕が見せている小さいアメリカの本当にある町の本当の生活ではないので。でももうひとつの意味においては アメリカ神話、理想化されたアメリカを探求しているわけです。アメリカが自身の神話において世界の探求をした方法の反映がある。僕の映画に皮肉ではなくてユーモアがあるとしたら、それは僕の人格からくるものであって、映画に出てくる人物を描いた僕から来たものではないということ。だからこのユーモアは 僕自身の人格から来た有機的なユーモアなんだね。そこには崩壊もあれば破壊もあるけれど、あなたが話しているようなものはないと思う。

●ヴィゴ・モーテンセン、あなたの演技に関してですが、あなたが演じる役は、後悔を感じていないように見えます。この点はデヴィッド・クローネンバーグと話をしましたか?
VM:特に、この人物の暴力への意識について、当たり前で必要なことを話したよ。この人物には喜びというものも見られない。デヴィッドとピーターは暴力のシーンをシンプルかつ現実的に撮影したんだと思う。そうすることがもっと危険で、インパクトのなものにするんだよ。それが感によるものなのかわ僕はわからないけれど、おそらく彼が持っている才能、暴力の才能なんだと思う。
DC:暴力がウィルスで、伝染病なのではないかと聞かれたことがあった。不幸なことに暴力はどんな健康的な体と精神を持つ人間にも存在するもので、だからこそ興味深いものだと思うんだ。われわれが暴力的になれるという能力が。僕が どうやって暴力を映画で描こうかと思ったとき いろいろな疑問を持ったよ。まず、暴力とはどこからくるものなのか?どんな意味があるというのか?僕の答えはフィラデルフィアのストリートから来るものであり、武道の暴力や残忍な答えの形とはまったく関係のないものだった。つまり、マフィアビジネスだったんだ。次々と仕事をこなす上で迅速に効果的に仕事をしなければならないからね。だから この手の暴力は様式化されているどころか、ほとんど暴力の反様式化なんだよ。
VM:それはそのとおり。ジョーイの人物を例に挙げると、彼は暴力的な人物とは描かれていないけれど、フィラデルフィアの彼の環境が暴力的で、彼の兄貴は彼にとってはマフィアというわけだ。彼は暴力をある時期に生き延びる手段として使った。だから 彼のことは最初の段階で 病的に暴力的な人物とはみなしていなかったけれど、社会的な条件によって作り上げられた ごく普通の人間だったんだ。でもそれがたとえばリッチーよりイノセントかというとそうではない。なぜなら、彼は良心の呵責を感じ、彼自身や彼の家族には暴力から来る肉体的、精神的な影響をみることができるんだ。この映画を通して、僕の役柄が暴力のせいで苦しんで、かれの人生における暴力、兄弟から、暴力社会から逃れたいとする姿を見られると思う。そこが この映画の中で興味深いところで、特にクローネンバーグ自身が分析したんだよ。人間が暴力に「No」と言うことができる、ジョーイのような人間でも 「No」と言える、彼が別の道を見つけようとしていることが見えるんだ。

●デビッド・クローネンバーグ、あなたは70年代にテレビのほうでたくさんの仕事をしました。今日 『Alias』や『LOST』のような連続ドラマの成功で、テレビの連続物を手がけたいとは思いませんか?『A history of Violence』のようなタイプのシリーズはいかがです?
DC:役者の役として『Alias』のなかで僕自身も演じたし、面白い経験だった。『a History of Violence』をテレビドラマ化する話があったことも事実だ。でもそれは一週間に一度、ミルブルックの町に悪いやつらがやってきて、トムがそいつらを殺さなくてはならないんだ。(笑い)僕がテレビのほうに戻るかもしれない、誰がわかるだろう?今はテレビの世界で仕事をするのはとても難しいことだ。というのはディレクターは常に完成度の高いものを求めるのに反し、紋切り型かもしれないけれど、テレビというものはプロデューサーの空間なんだよ。監督はこの空間においては、コントロール権限があまりない。僕は まったくテレビでドラマを担当しないとは言い切れないが、担当する可能性はとても少ないだろうね。

●あなたのインタビューの中で、セックスと暴力は関連していると答えていますが、この辺について詳しく聞かせていただけますか?
DC:僕の中ではこうなんだよ(笑い)。僕は常に暴力の中に性的な要素があり、性において暴力的要素があると思うんだ。もちろん、その割合はさまざまだろうけれど、僕が常に述べていることは変わらないんだ。動物としての人間、霊長類が受け継ぐものなんだ。このタイプの疑問はたいていヒヒに関する長いディスカッションにつながってしまう。もしあなたがヒヒであり、チンパンジーであったら、霊長類の暴力的な行為は、性行為の前に必ず起きるわけだ。なぜなら 支配力のあるオスとしてメスを獲得するためには、殺さなければならないからね。そしてメスのあいだでも同じようなことが起こる。これはダーウィンの進化論にも関係することだと思うんだ。今日、もしこのことがあまり語られないとしても、性に関係する暴力はつねに表面下にあるものなんだよ。

●俳優の選択についてですが、エージェントを信頼していますか?
DC:常にエージェントを信頼できるとも限らないから難しい。僕自身、ロサンジェルスの僕自身のエージェントとは決別したことがあるからね。ある日彼に僕の計画のためにある俳優とネゴしてほしいと頼んだら 僕のエージェントが「彼が断った」と言うんだよ。この俳優のキャリアにはよくないことだ」というのが理由だったんだ。ところがある日実際にこの俳優に会ってみて、僕がオファーしたはずの仕事の話は 彼には伝わってなかったんだ。ところが、マネージャーとエージェントの間には かなり強い絆があって、直接俳優や監督にアプローチできない状況なんだよ。そこには ちゃんとした理由があるからなんだけれどね。もしそんなことが可能だったら、ある映画俳優や映画監督は山のように押し寄せるオファーに埋もれて、何一つ実現しなくなるだろう。個人的な関係が大切なことも事実だよ。たとえば今日直接Viggoと連絡を取れるし、僕のシナリオを直接彼に送ったりすることができるか、彼のエージェントを通さなければならないかなども 彼に聞くことができるわけだからね。まあいろいろと大変だけれどそこには理由があるんだ。個人的な関係はときによってキーになるよ。
VM:フランスではどんな状況かしらないけれど、たとえばデンマークでは、俳優はエージェントを持たないんだ。スペインではエージェントは存在するけれど、プロデューサーや監督と連絡を取るのに、アメリカのエージェントほどの権限はない。アメリカではダヴィッドが話したように、エージェントは危険だ。でも彼らが連絡を取ったり、計画を動かしたりもする。信頼関係だよね。個人的には僕はエージェントといやな経験があったから、僕自身が監督と直接話をして、僕自身がシナリオを読むほうを好むけれど。『A history of Violence』の場合には、僕がシナリオを読んで、僕がシナリオをよいと思ったけれど、もしそれがデヴィッドじゃなくて、一度も会ったことのない人だったら、やってなかったと思うよ。

●映画の中における暴力の影響は、短い残虐なシーンです。検閲の問題はありませんでしたか?
DC:いいえ。この映画には単一のバージョンしかない。多分いくつかの国では、その国の検閲に引っかかるシーンをカットされることもあるだろうね。しかし、150以上の国で映画が公開される場合、どこの国で映画がカットされたとかカットされないとかまではわからない。フランス、ヨーロッパのほとんどの国、カナダ、アメリカ、イギリスではカットや検閲の問題はないと言える。セックスや暴力を表現することにおいてしばしば心配をするアメリカの検閲からも 何も言われなかったわけだから、自分からカットする必要もないよ。テレビに関しては、飛行機の中と同様カットされたことがあったね。使われている言葉においてもカットされた場合があった。ほかの言葉に置き換えたりされて、人工的に味付けされたバージョンは なかなか滑稽だったよ。

●あなたの映画自身が 映画館のスクリーンにおいて 「暴力の歴史」となりうると思いますか?
DC:はい、そうですね。もしもあなたが話す歴史の一部となりえるのだったら光栄です。なぜなら映画の暴力・芸術の暴力に関係するわけですから。現実的な暴力とは関係ないですけれど。

●ベルイマンはあなたの映画にどのような影響をもたらしましたか? 特に『A history of Violence』における影響は?
DC:時として、影響がまねとして勘違いされることがある。スクリーン上でみるものと同じものを作りたいと思う。影響の疑問に関してはもっと微妙だね。もちろんベルイマン、フェリーニ、黒澤、トリュフォーなどがいる。私はある一人の映画監督ができることを見せたい。あなた方がスクリーン上でみるものを大幅に超えるようなこの世でひとつの声、唯一の感性ということなんだ。なぜなら 彼らの名前はいまでは形容詞として頻繁に使われるようになってしまったから。例えば フェリーニ的な実験とかベルイマン的実験とか・・・・。モダンとクラシックの巨匠のすべての影響がもちろん僕の映画の中にはあると思うんだ。
VM:彼がどうして 映画の撮影中に誰もわからないようなスウェーデン語を話していたのか これでやっと判ったよ(笑い)。

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インタビューは "Inrocktibles" の編集記者Jean-Marc Lalanne氏。 

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